2011.05.22
4月下旬、親友の猛からメールが届く。母校の小城高校で毎年5月3日に「黄城会総会」という同窓会があり、旧制中学時代の卒業生から在校生まで幅広く集まって盛大に挙行、在校生の時は参加したけど卒業後はたぶん参加してない、1回行ったかな? 記憶があやふや。その同窓会へ帰ってくるかどうかの打診だった。卒業25年目の輩が実行委員会を組織して企画運営、今年は俺たちの学年が担当、先輩からの引き継ぎ、後輩への引き継ぎを含めると、足掛け三年の苦役、まるで前厄、本厄、後厄みたいだ。「なんでこんな大変ことをしなきゃいけないんだ、ほんとに往生(黄城との掛詞)します」と呼ばれる奇習、長年続く伝統行事なので「もう終わりにします」と打ち切る訳にもいかず、懐かしい再会と絆で続いてる。美術部だった者がチケットやチラシなどのデザインを担当してるそうなので、美術部の平部員だった俺は昇平部長のチラシ制作を神戸から遠方支援、最小限の仁義は果たし、同窓会に行くかどうか思案してた。猛のメールによると、もし俺が参加するなら、美術部の恩師金子剛先生が一緒に行動したいそうなので電話してみて、とのこと。早速、先生に電話してみた。俺たちの卒業と共に14年勤めた小城高から異動した、思い出深い学年の総会だ、参加するのは今回で最後だろう、これを逃したら二度と行くことはないだろう、俺と一緒に行きたいと熱望されたので、恩師の勅令は無条件遵守、当日早朝に神戸を出発することにしたら、佐賀駅で先生が出迎えてくれるという、かたじけない御厚意を賜る。
始発5時26分の地下鉄で出発、鹿児島まで行く新幹線みずほの自由席は超満員、トイレの前でずっと立ちっぱなしだった。観光バスみたいに補助席があったらいいのにと思ったけど、それでも全然足りないと気づき、飛行機みたいに全部指定席にしてほしくなる。俺の足元で気分悪そうにしゃがみ込んでる男の子がいて、「トイレで吐いてね」の願いが叶って博多に無事到着、駅ビルは改築されて凄くきれいになってた。佐賀駅で先生と合流し、小城高へ向かう。芸術新潮が青木繁没後百周年の特集号を出すらしく、「八日目の蝉」の角田光代さんが取材に来て、先生がいろいろ案内したそうだ。どんなふうに載るか、ちょっと楽しみができた。小城高には青木繁の絶筆「朝日」の実物が飾ってあったこと、2つ上の先輩たちが文化祭で朝日の模写を描いたこと、1年生の美術の授業の初っ端に青木繁のレポートを書いたことを懐かしく思い出す。
ほどなく小城高に到着、同級生がたくさんいて、受付,会場案内,司会進行など役割分担してる。すぐ思い出せる人、顔は判るけど名前を思い出せない人、全く面影が無くて初対面のような人(相手が俺を知ってる場合、気まずい)、そもそも高校時代にほとんど知らなかった人かも。25年は結構長い時間だけど、過ぎてしまえば儚い。会場の体育館には折りたたみ椅子が並び、壇上右側の壁に朝日の模写が飾ってあった。
途中からの参加だったので、会計報告や評議員承認などのお堅い話は既に終わっていて、ひょっこり再会した6つ上の西先輩の隣でアトラクションなどを気楽に眺めた。己の老化現象を嘆く西先輩は紅白エビ養殖で一攫千金を狙ってるようで、昔みたいに怪しい雰囲気はそのままで、なんだか嬉しかった。卒業50周年の御祝いもあり、68歳の卒業生たちが壇上に並ぶ。存命者は約1/3、単純計算を強引に当てはめると、卒業25年目の俺たち世代で生き残ってるのは約2/3、これからの25年で半数は死ぬのか、五分五分だな。人生80年の平均前で死ぬ人も多いけど、40歳の4月から始めた目指せ1万枚画集が成就した暁に、俺は晴れやかな気持ちで壇上に並んでみたい。
もらった弁当を先生の車の中で食べつつ、駐車場のそばにそびえ立つ巨大な楠を見上げ、きれいなアオスジアゲハが舞ってたことを思い出す。高校生の時には知らなかったけど、アオスジアゲハは楠で育つらしい。小城高で一番懐かしい場所、美術室に行ってみる。知り合いは誰もいないだろうと思ってたら、顔見知りの石丸くんが美術の非常勤で赴任してたのは嬉しい驚きで、気兼ねなく見学できた。美術部の学生たちは遊んでたらしいけど、急遽3分クロッキーを始めてた。全身の動きを速描するのがクロッキーだけど、ちまちま描いてる学生が多く、見兼ねた先生は即興授業を始め、「自分も動いて描いたり、1枚の紙にたくさん描いたり、ムーブマンを捉えるのがクロッキー、ロダンのクロッキーは素晴らしかですよ」と指南する。
中学時代の恩師、小城高美術部の先輩で、「小城高へ行くなら美術部に入れ」と勧めてくれた平江先生に会いに行ってみたけど、生憎の留守だった。せっかくなので、少し足を延ばして多久市郷土資料館に行く。草場佩川という人の書画が並んでた。電気学会を創設した志田林三郎という先人がいて、1888年の「電気学会雑誌第一輯」復刻版が飾ってあった。古文書みたいな和綴じ本は工学雑誌らしくなく、お経を連想するほど珍妙だ。俺が参加してる電気関係学会連合大会と縁の深い電気学会の創設者との思いがけない遭遇だった。
龍登園で同級生に絞っての同窓会、酒を飲まない俺は先生の代行運転手として参加する。子供の頃、夏休みの町内会遠足で出掛けたホテル、波のプールで溺れて沈み、ぼんやり水面を見上げてた俺を監視員のお兄さんが救助してくれたことを思い出した。誰でもそうかもしれないですが、死にかけた体験はいくつかあり、長生きは簡単じゃないのだ。互いにプロレス狂だった計介と再会、当時の熱い思いが蘇り、出会い頭のラリアットで相打ち、俺は素早く横へ回り込み、バックドロップの体勢で持ち上げようとしたが、計介の腹周りが太くなり重くなったのか、俺の瞬発力が衰えたのか、少しだけしか持ち上がらなかった。肩や腰を痛めるかもしれないので無茶は厳禁の安全第一ながらも、威勢良く持ち上げたかったな。アントニオ猪木を指導したカール・ゴッチのように、死ぬ間際までトレーニングしてた元気な爺さんなら、簡単に持ち上げるだろう。日々の運動不足を解消せねばと痛感する。
ネットで予約してた宿、佐賀市内最後の1部屋だった「あけぼの旅館」にチェックイン、青木繁も滞在したことがある旅館。毎年、黄美展(小城高美術部OB展)の折に先生を囲んで新年会をしてる旅館だけど、泊まるのは初めてだ。先生が「朝飯ば付けてあげて」と女将さんに壱万円渡し、「おいの車ば貸すけん、明日、平江先生に会いに行きなさい」との計らいを賜り、翌朝、会いに行けた。先生に佐賀駅まで送って頂き、心底ありがたかった。血縁関係を超えた息子のように気に掛けてくれる先生、深い恩のある師匠、まさしく恩師との出会いが無かったら、今の俺はいない。25年後の卒業50周年、先生は97歳、また一緒に行けるかも!