自己紹介

自己紹介やいろんな思い出を書き連ねてみました。自伝的な文章を書いてみて、改めて思った・・・たくさんの善い人が優しく導いてくれたおかげで、今の俺がいる。画集へ戻る

生い立ち・・・生まれ故郷の天草


40歳の俺

1967年 熊本県天草出身。天草は長崎県じゃなかばい! キリシタン弾圧(島原の乱や天草四郎)でごちゃまぜになって誤解されてるかな? でも方言は似ていて、天草と長崎南部の言葉は凄く似てると思う。天草→名古屋 (の北隣の岩倉)→佐賀→福岡→長崎→神戸と、十数回引っ越して言葉遣いがちょっと変やけど、決してブラジル出身じゃなかです。多感な十代を佐賀の牛津町で過ごし、30代まで九州北部地方で暮らしたので、とりあえず九州男児ですね。長崎で暮らしてる頃、海の彼方に天草が見える日もあり、生まれ故郷を眺めてちょっと嬉しかった。

生まれたときは約2kgの未熟児で、腹の皮が薄くて腸が透けて見えてたらしい。予定日より約2ヶ月早く生まれてしまい、保育器なんて無く、産婆さんは「すぐ死ぬばい」と言ってたけど、死なずにすんだらしい。盆正月、天草に帰省するたびに、ばあちゃん,おじさん,おばさんが「命に縁のあったとよ、てるちゃん大きくなったね〜」と喜び、何回も聞かされた話だ。じいちゃんは物心つく前に死んだので、全然知らない。木の祠の小さな墓だった。どんな人だったんかな?

帰省の楽しみは魚釣り、自転車屋兼漁師のおじさんの小舟で海に出て、のんびりテグスを垂らして、無限に広がるような海を眺めながら、鯛、ガラカブ(カサゴ)、ウマヅラ(カワハギ)、トンボ(縞模様の魚)などを釣った。陸に戻ってもしばらく波に揺られてる感じが続いてた。おじさんたちが捌き、おばさんたちが調理、鯛は刺身、ガラカブは味噌汁、ウマヅラは煮付け、トンボはつみれになった。活きたまま殻をむいて食べる車エビも旨かった。ミナ(サザエの赤ちゃんみたいな小さな巻貝)を岩場でたくさん取り、茹でたのをまち針でクリンと出して食べた。だご汁(もちもちした団子状の麺、香ばしい焼き魚のほぐし身、少し粘り気のある汁)、唐芋餅、干し芋も天草を思い出す故郷の味だ。親戚一同の晩御飯は楽しく、箸で皿を叩く音でカラオケ、めでたい宴を祝う踊り、大声での言い争い、奇声が飛び交い、おじさんたちは浴びるように酒を飲んでた。俺は片腕のおじさんのあぐらに座ってたのをぼんやり憶えてる。

大きな鉄釜の五右衛門風呂、丸い板が浮いていて、それを踏み沈めながら入浴、ばあちゃんが下から薪をくべ、体の芯からじんわり暖まり気持ち良かった。夏祭り、精霊舟流し、虹のような回灯籠、蚊帳と蚊取り線香の匂い、水道代わりの大きな水瓶、小川での野菜洗いや洗濯、便器なしの木の床に四角い穴のトイレ、その下の糞瓶と無数のウジ虫・・・懐かしい記憶の断片。

名古屋(の北隣の岩倉)・・・記憶の始まり


6歳の俺

俺の一番古い記憶は、水の中で揺れてる膝のかさぶた、父さんの肩車で飲んだヤクルトだ。幼児の頃に大阪で暮らしてたと思ってたけど、大阪の親戚んちに遊びに行った記憶だったらしい。名古屋、正確には北隣の岩倉の長屋に住んでた。すぐ近くはガラスコップ工場で、ドラム缶に大量の不良品が捨ててあり、俺は使えそうなコップを探して遊んだり、休みの工場に入って、ローラーコンベヤーで滑り台して遊んだ。家の前はスイカ畑で、農作業を熱心に観察してたら、食べたそうに見えたのか、おじさんがスイカをくれた。切ってみたら黄色だったので驚いた。

幼い頃から図画工作が大好きだった。本の付録を組み立てたり、ヤクルトの容器でロケットを作ったり、レゴブロック遊びに熱中してた。幼稚園での造形活動も楽しく、紙を折ってハサミで切り、それを広げると雪の結晶みたいになり、きれいだなぁと思い、何枚も作った。厚い紙皿に描いた鯉のぼりは俺の幼児期の傑作で大切に保管してたはずだけど、いつの間にかなくなってしまった。

小さい頃はしょっちゅう病気していて、シロップ薬をいつも飲まされてた。どこかの神社の御守を首にぶら下げ、腹巻して寝てた。まるでフーテンの寅さんみたいだった5歳の俺は、横断歩道を渡ってたらタクシーに轢かれてしまう。母さんが「てるゆき!」と叫んだ直後、急ブレーキの音、激しく転がる俺、意識朦朧、車の中? 目が醒めたら病室だった。前輪と後輪で腹を2回轢かれ、タクシーのおじさんは逃げずに俺を病院へ運んでくれたらしい。腹の皮が擦り切れたけど、轢き殺された犬や猫みたいに悲惨な状態じゃなかった。いつも首に下げてた御守がズタズタに破けてたらしく、両親は「神様が守ってくれた」と言って、しみじみ信じてるようだった。俺はあまり信じてない。病室でおねだりして食ったメロンパンは旨かったなぁ。10歳の頃まで、腹にタイヤの跡が残ってた。

佐賀・・・少年時代の故郷

小学生になる少し前、佐賀に引っ越した。蒸気機関車に乗るという約束だったと思うけど、飛行機で福岡空港、電車で佐賀駅へ、佐賀神社前の屋台で晩飯を食べた。住む家がまだ見つからないのか、引っ越しトラブルか知らないけど、親戚のおじさん家にしばらく居候させてもらうことになった。駅の近くの家で、俺は止まってる電車を無心に描いた。やがて、国道沿いの廃墟のような家に引っ越した。玄関を開けると土間で、そこが風呂場だった。元々は風呂場がない家だったみたいだ。どの部屋も凄い雨漏りで、父さんは家の中から天井をトタンで覆い尽くした。「金子板金工作所」とペンキで手書きした軽トラックに道具箱や建材を乗せて、父さんは建築板金業を始めた。トタンやスレート屋根、雨樋、水切り、ステンレスレンジフードなどの施工だ。俺と弟は手伝いをして、ジュースやアイスの飲み食いが楽しみだった。時々、銅板屋根の仕事があり、その時の父さんは機嫌良かった。建設現場はなんだか楽しい場所で、ジャングルジムみたいな足場、いろんな道具や建材、薄青紙の設計図、鉋屑の木の香り、おっかない風体の職人がとても優しかったり、外で食べる弁当は旨かった。俺は端材を組み合わせたオブジェみたいなのを作って遊んでた。近所の絵画教室に通ってたけど、両親は病弱で小さな俺をアート方面へ向かわせようとしてたのかもしれない。母さんは自宅を一部改装して、クリーニングの取り次ぎ店を始めた。俺はレジで勘定したり、伝票の数字と同じ服を探して渡したり、留守番で手伝いしてたらチップをくれる客もいて、向かい側の商店で駄菓子を買って食べてた。

小学3年の春休み、佐賀県の中央あたりにある牛津町に引っ越した。田んぼを潰した新興住宅地、建て売りの新築平屋だった。小雨の日、何も無い庭と家の中を見渡し、友達と別れるのは悲しかったけど、一気にきれいな家で暮らすことになったのが不思議だった。庭に仕事場と屋根付き駐車場を作り、台所,風呂,トイレを拡張し、二階を増築したり、仕事仲間の大工や左官、しばらく居候させてくれた親戚のおじさん(鉄筋業)に手伝ってもらい、父さんはこつこつ大改修した。

小学5年の時、電器屋2階の珠算教室に通ってた。最初は紙そろばん、足し算だけでなく、掛け算や割り算もできるなんて知らなかった。伝票の束をめくりながらの計算は楽しかった。数十人の子供が珠を弾く音の中、黙々と計算して、無の境地で瞑想してるみたいだった。3級までは簡単だったけど、2級に2回落ち、友達の1級練習帳の桁数に衝撃を受けて、もういいやと諦めた。絵画教室と珠算教室での体験は、アートと数学が好きな気持ちを強めたのかなと思う。

あれこれ考えず、友達に誘われるまま、地元の牛津中学校(徒歩で2km)、一番近い小城高校(自転車で4km)に通った。中学生の頃まで小さくて、背の順に並ぶ集会では前から1番目か2番目だったね。中学の部活はバレーボールでセッターをしてた。その後、やっと成長期が訪れ、高校,大学と背が伸び続け、20歳過ぎても5cm伸びて175cmに、体重は78kgまで太った時期もあった。

高校1年の頃、なぜか自転車競争に熱中してた。美術部だったけど、「外でスケッチしてきます」と言って抜け出し、高校そばの小城公園で美術部1年生のみんなと競争して、激しく転んだりしてた。帰り道も競争して、たんぼに転落する友達もいた。夏休みには、山越えして唐津まで海水浴に行くというロードレースをした。夜明け前に出発、約40kmを1時間半で走破、朝日を浴びて到着、昼頃まで泳ぎ、帰りは倍の3時間もかかって猛烈に疲れたけど、楽しい思い出だ。

空を映す鏡のような水田に整然と並ぶ苗、蛙の大合唱、道に潰れた無数の蛙、煙幕みたいな農薬の変な匂い、黄金色の稲穂や麦穂に風が流れて擦れる音、刈り穂を焼いて漂う濃霧のような煙、クリークでのアメリカザリガニ,フナ,ハヤ,雷魚釣り、勝手に取って食べた柿の旨さ、豚小屋のかわいい子豚、祭りの花火、少年の頃を思い出す懐かしい光景だ。

福岡・・・大学に9年も通うとは思わなかった

予想外の一浪を経て、九州芸術工科大学 画像設計学科に合格した。気に入ったアパートが見つからなかったので、当面の間だけ寮に入ることにしたけど、大きな風呂は気持ち良いし、友達もできたし、無料で九スポを読めるし、結局、学部の4年間を寮で過ごした。中学,高校,大学と進むにつれて学生の幅が広がり、聞き慣れない方言や奇妙な趣味など、いろんな人に会えて楽しい。3年の時、俺と同じ熊本出身の小山俊英寮長と留学生の羅くんの祖国台湾へ行き、こんな近くに別世界があることを実感する。秘境探検ではないけど、テレビで観るのと現地での生の見聞は大違いだ。故宮博物院のヒスイの白菜や超絶技巧の品々に深い感銘を受けた。既成概念を揺さぶる異質な体験、人の心根は同じだという安心感、旅はやっぱり刺激的だ。


一番太ってた頃

修士に進み、新幹線の引き込み線沿いのアパートで一人暮らしを始めた。研究室の先輩の紹介で早稲田電子専門学校福岡校の非常勤講師になれて、日本育英会の奨学金もあり、学資面は安泰だった。教えることは新鮮で、「学ぶより教えるのが難しいなぁ」と思った。2年の夏、九州造形短期大学への就職話が舞い込んできた。学部の担任だった佐藤優先生がポートフォリオ作りを指導してくれて、なんだか集中講義みたいだった。面接のために背広を買ったけど、理由も明かされずにドタキャンされた。後日改めて面接に行ったら、あっけなく落ちた。誰か他の人を一本釣り採用したのか、ほろ苦い就職活動だった。修士論文の執筆は予想外の苦行だった。小山が図版作成を手伝ってくれて、2日半の不眠不休で論文を書き上げ、どうにか間に合った。顔色が薄緑になった俺は泥のように眠った。早く書き始めておけば楽なのに、どうしてあんなにきついことをしたのか、2度と御免だ。

小山の指導教授の瀧山龍三先生に誘われて、新設された博士課程に進んだ。羅くんが住んでたアパートに引っ越し、居住空間が少し広くなった。修士までの自由なCG創作ではなく、まじめな工学的研究だったけど、プログラミングの素養は役立った。最初の1年間は数学の勉強漬けだった。結構楽しかったけど、原因不明の食欲不振になり、精密検査で異常無し、医者は「恋の病じゃなかと?」と茶化す。食事すると吐き気がしてヨーグルトや雑炊とかを少し食えるという状態が続き、3ヶ月で10kg痩せた。研究テーマが決まらず、奨学金の借金はどんどんたまるし、飲めない酒を飲んで強引に眠ったり、将来に漠然とした不安を抱いてたのかもしれないけど、深刻に悩んでなかったし、よくわからない間に治った。

研究室の小野直樹先生は兄貴分的な存在で、日々様々な事柄について優しく助言してもらった。佐賀出身で、とても親近感があった。論文執筆や発表の仕方なども教えてもらい、励ましてもらい、本当に感謝しています。山歩会というサークルに誘ってもらい、汗だくになって黙々と山を歩くのは良い気分転換だった。どうにか研究テーマが閃き、英語で論文を書いて国際学会で発表したり、だんだん光が差し込んできた。瀧山先生の熱烈な叱咤激励を賜り、「足の裏の米粒みたいで、取らなきゃ気になる、取っても食えない」博士号を取り、運良く大学教員になれた。ちょうどその頃、通学に使ってた原付バイクのエンジンがかからなくなり、9年間の役目を終えたかのように壊れた。

長崎・・・就職、結婚、夫&父になる


就職した俺

就職活動は超楽で、OBの紹介で長崎総合科学大学(元 造船大)に赴任できた。ひょんなきっかけで一本釣り採用してもらえて、本当に幸運だった。工学部 機械工学科 情報制御工学コースという部署で、初年度の担当科目は工学基礎実験と電気回路だった。工学基礎実験は4人で分担、俺は熱電対(温度差で生じる電流を利用した温度計)とオシロスコープ(電気信号の波形をみる計測器)を担当した。電気回路の教科書に指定されてたのは、瀧山先生の師匠 大野先生の共編本だった。工学色を薄くして情報色を濃くするカリキュラム改革で、その後はCG,マルチメディア,プログラミングなどの情報関連科目を担当することになる。

大学近辺には若大龍,よし食堂,リンガーハット,元ジャスコなど、チャンポンを食べれる場所がいくつもあり、よく食べてました。リンガーハットのチョコアイスはうまかね。リンガーハットの店員は時々おでんを勘定し忘れてくれるのでありがたい。茂木ビワ&ゼリー,角煮まん,中華ちまきなどもうまかね。トルコライスというのがあるけど、佐賀や福岡ではみたことなくて、未知の料理だった。卓袱料理は和華蘭(わからん)といわれる和洋中ごちゃまぜの料理で、最初におしるこがでたりして、わけわからん。カスタードクリームのてんぷらもあった。


左肩のレントゲン写真

長崎では3回入院した。1997年は交通事故、1998年は集団赤痢、1999年はインフルエンザ、のどちんこが千切れそうな強烈な咳をするたびに脇腹が痛い。入院前から痛く、退院後も痛かったけど、1ヶ月ぐらい我慢してた。全然熟睡できなくてつらいので、レントゲン撮影してもらったら、肋骨が2本折れてました。2000年の春はなぜか咳が止まらなくて、百日咳みたいなものとの診断、また熟睡できんかった。2001年は坐骨神経痛、2002年は研究室の引っ越しの時に本を詰めた重いダンボール箱を持ったまま右足首をひどく捻挫した。築30年以上の老朽職員アパートに住んでたけど、そこから引っ越したら体調が良くなる。地縛霊かな? ほんと職員アパートは不気味な雰囲気で、遊びに来た友達はみんな気味悪がってた。2004年は左肩が痛くて上がらなくなる。ナチの挙手みたいな角度にしか上がらなくてヤバい。五十肩か? 近所の外科で検査してもらったら、鎖骨の途中から小さな骨が生えてるらしい。医者は専門書をめくりながらしばらく悩み、レントゲン写真を指しながら「普通、ここは靭帯になっていて骨じゃないけどねぇ、生まれつきかもしれんね」と言う。レントゲン写真の赤線部分が奇妙な骨らしい。右肩も撮って比べたら判ると思うけど、医者はたいしたことなさそうな感じで、とりあえず注射する。左肩の間接に長い針を垂直に突き刺す注射、見た目は痛そうだったけど、全然痛くない。湿布と薬をもらった。寝返りすると痛くて熟睡できなかったけど、1年ぐらいで自然に治った。

2002年に人生の節目を迎え、女気が無いのでホモ疑惑をかけられたこともあったけど、覚悟を決めて結婚した。2005年に息子が生まれ、俺は父親になった。幼い頃から頻繁に高熱を出してたので、母さんは俺を種なし男だと思ってたらしく、本気で驚いてた。俺は水疱瘡とお多福風邪をしてなくて、息子から感染するのが恐いので血液検査してもらったら、やっぱり抗体が無かった。すぐ予防注射してもらった。その年の研修旅行での水俣病体験談は超悲しくて、語り部のおばあさんの話し方が死んだばあちゃんに似ていて、思わず泣いてしまった。子供の頃、天草の親戚のおじさんたちと小舟で1泊2日の魚釣りした時、仕切り網を通過して水俣港で休憩したこと、おじさんたちが水俣病の話をしてたことを思い出した。語り部のおばあさんは何回話しても泣くんだろうな。体験談で泣いた5月22日は俺の誕生日だった。重たく悲しい話だったけど、五体満足で平和に楽しく暮らせてることを有難く思った。

2006年、正月早々ウイルス性急性腸炎になり、嘔吐と下痢で脱水症状、点滴してもらったらだいぶ楽になった。年末にはノロウイルスで寝込み、たぶん正月のもノロウイルスだったと思う。

事故紹介


買って約1年で全焼したニッサンサニーちゃん

1997年7月、長崎自動車道下り車線、諫早インター手前のトンネル出口で事故に巻き込まれた。沖縄出張の帰り、夜中、トンネルを出たら凄い土砂降りで視界不良、アクセルから足を離した直後に車の側面が一瞬みえて激突! 巨大な拳で胸を殴られたような衝撃で息が詰まって気絶しそうになり、割れた風船みたいなエアバッグがハンドルから垂れてた。胸がめちゃくちゃ痛くて呼吸するのもしんどい。しばらくしたら、車が炎上し始めたので、胸が痛くて動きたくないけど、現場にいた親切なおじさんの肩をかりて、どうにか脱出した。どんどん炎は高くなり、爆発音も聞こえる。エアバッグとシートベルトのおかげで助かったけど、胸骨を骨折、車は全焼で、デジカメ,背広一式,財布,免許証,保険証,各種カード,パスポート,鍵などを焼失してしまう。財布にはパソコンを買うつもりで15万円ぐらい入れてたのだ(;_;)。土砂降りの中、路肩の草むらで仰向けになり救急車を待つ。女神が俺の最期を看取るかのように、優しい妊婦が膝枕してくれたけど、男(たぶん旦那)に呼ばれてどこかへ行ってしまう。頭から流血した男がいて「僕が悪いんですかね〜」と繰り返し言ってる。他にも数人いて、いろいろ話してるのを聞いてると、どうやらその流血男がスリップ事故して道路を塞ぐように横向きに車が止まり、あたふたしてるところへ俺が激突したみたいだ。横向きの黒い事故車、発炎筒は無し、真夜中、土砂降り、トンネルの出口直後、悪い条件がたくさん重なってたね。でも馬鹿な警官が「前方不注意ですね」と言う。事故車をほったらかして逃げ出した奴が悪いでしょう?この事故の2ヶ月前に自動車保険の切り換えで、中学時代からの友達が扱ってる保険に変更して、車両保険も勧められたので加入してた。そのお蔭で、次の車をあっさり買えた。ちゃんと保険に入ってたのが良かったね。全焼の車のローンは2年後に終了。


くの字に曲がった相手の車

後で思い返して不思議なこと、激突する瞬間に右の方から男の太い声で「危ない!」と聞こえた。土砂降りの走行中にどうして聞こえたんだろう? 自分の心の声? 守護霊からの警告?

後日、パトカーに乗せられて、事故現場で当時の状況の聞き取り調査がある。「どこで事故車に気づきましたか?」、気づく間もなく激突や。「どの地点でアクセルを離しましたか?」、そんな地点なんか分からんよ。かなり適当な調査やね〜と思った。調書作成のための儀式みたいだった。

神戸・・・一番長く暮らしてる場所になった

俺は工学部&人間環境学部で情報関連の講義を担当してきたけど、どうでもいい雑用ばかり増えるし、なんだか不完全燃焼で、日々の暮らしがマンネリでだんだんつまらなくなった。セクハラで首になるか、他の大学に引き抜かれるか、公募で採用されるか、辞職して他の道に進むか、大学が潰れるかしない限り、定年退職まで勤めることができるけど、俺は気分転換を兼ねて他の職場に行ってみたくてしょうがなくなった。全国の教員公募情報を掲載しているJREC-INという研究者人材データベースで「北部九州の情報系」を検索して、いろいろ挑戦した。初めての自主的な就職活動だった。最初の公募は長崎シーボルト大学、2次面接まで進み、控え室で待たされてる間、ちょっと面接室を覗いてみたら、同僚の仲良し教員が面接を受けていて驚いた。こんな近くにライバルがいたとは! その教員が採用され、俺は落ちた。福岡工業大学と九州産業大学は其々2度書類審査で落ちて5連敗。長年携わってきた情報系が良いかなと思ったけど、なかなか難しい。「本当に俺が好きなことは?」とか「やりたいことは?」と自問し、やっぱり、子供の頃から大好きだったアートの世界に行きたい気持ちが甦り、情報系や慣れ親しんだ北部九州へのこだわりを捨て、「全国のアート系」を検索した。ダメもとで東京芸術大学に挑戦したら、やっぱり書類審査で撃沈、6連敗。無謀な挑戦だったね。そして、7度目は神戸芸術工科大学デザイン学部ビジュアルデザイン学科、ラッキーナンバー7の御利益か遂に合格した。長年暮らした九州を離れるのは悲しいけど、神戸に引っ越すことになった。神戸芸工大は九州芸工大の吉武学長が作ったらしくて、キャンパスの雰囲気がそっくりで、母校のような気がした。

2007年の春、神戸に引っ越して、いきなり家族3人インフルエンザA型に感染した。タミフルの服用による異常行動は無かったけど、俺はひどい咳の風邪がなかなか完治しなくて、異常気象&生活環境の変化などに苦戦してる感じだった。とりあえず決めた新居は、改めて眺めたらボロく、水洗トイレは詰まり、トイレのドアが低くて何度も頭を打ち、キッチンの蛇口の先端部品が壊れ、床には微妙な段差がたくさんあり、カクッと空足踏んだり、つまづくし、いろいろトラブル続きで、思いっきり出端をくじかれた感じだ。早速、引っ越す計画を練る。神戸に来る直前にジャパネットたかたで買ったカーナビが大活躍で、周辺地理にもすぐ慣れ、いろんな物件を比較検討して新居を買った。


神戸の雑感

趣味


初めて買ったデジカメ FUJIFILM CLIP-IT DS-20

趣味は芸術鑑賞、デジカメ、数理的CG。1996年、生まれて初めての冬のボーナスでデジカメを買った。MSX2と同じ49,800円、FinePixの祖先、30万画素のおもちゃデジカメだった。液晶画面は1.8インチで小さかったなぁ。以前はアナログカメラ(フィルム使う奴)を愛用してたけど、それは懐かしい思い出となり、徐々に進化していくデジカメに乗り換え続け、長年FinePixを使ってた。今は2,030万画素のCanon PowerShot SX720HSを使ってる。最初のしょぼいデジカメの67倍の画素だ。これまでの撮影枚数は18万枚を超え、ハードディスクの肥やしになってる。「そんなにたくさん撮ってどうするの?」とか訊かれるけど、俺的には老後の楽しみだと思ってる。めでたく爺さんになれたら、昔の写真を見て、俺の歩んできた道を懐かしく思い返したい。若い頃からの膨大な写真を見返しながら死にたいね。死ぬとき、脳に蓄積された記憶が走馬灯のように再生されるとゆーけど、俺は自分で走馬灯のネタを集めてるんだね。

子供の頃はプロレス狂で猪木信者でした。友達にも猪木信者が多く、馬場信者は迫害されてた。しょーがないね、猪木の方が絶対的にかっこ良いから。プロレスごっこに明け暮れ、投げ技は危ないので、主に関節技のかけ合いをしてた。でも猪木が引退して、急速にプロレス熱が冷めてしまった。K-1PRIDEとかの総合格闘技も時々観るけど、技が少ないので物足りない。オリンピックの柔道みたいで、勝ちを意識し過ぎる真剣勝負はつまらん! ねちねち子供のケンカみたいやね。鍛えた肉体から繰り出される技の応酬、軽業師みたいな空中殺法、くだらん反則攻撃、大人数のバトルロイヤル、やっぱ大道芸みたいなプロレスが好きやね。

中学生の頃からいろんな映画を観てきたけど、プロレスと同じように熱が冷めたような気がする。テレビ放映やレンタルで観たりもするけど、やっぱり、映画館の大画面で観るのが好きで、年に数本ぐらいは観るかな。何でもありのCGはなんだか興醒めで、CGを全く使ってない映画にはドキュメンタリー映画の重みがあるように思える。数時間鑑賞する体力と気力が衰えたのか、つまらない映画は途中で居眠りしちゃうけど、映画館に包まれて眠るのは気持ち良い。